創造的に生きる

ドナルド・ウィニコットの発達心理学を理解する

翻訳:馬場 汐梨

今朝、私の居間の窓からの眺めは15cmの雪ですっかり変わりました。枝が明るい日の光で輝いています。クロウタドリやスズメ、シジュウカラが歌い、餌を探そうとどっさり積もった雪を払い落としています。生きていることは気持ちがいい。しかしもし私が窓の外を見て、頭では見事な景色だと思いながらもそれを感じることができなければどうでしょう?喜べるものが何もなかったら?すべてが非現実のように感じたら?生きていると感じるのではなく、内心では死んでいるように感じていたら?もしそこに、意味がなく、創造性のアンチテーゼである無益さしかなければ?これはとてもよくある経験です。ほとんどの人にとっては幸運にも一時的にしか続きませんが、一部の人には永遠に感じます。リサージェンスは先陣を切って、自然と人類の断絶が広がっていることを警告してきました。小児科医で精神分析医でもあるドナルド・ウィニコットは私たちの中の断絶や分離に興味を持っていました。まずは創造性に関する彼の考え方を手短に概説します。

 1970年、人生の終わりに近づいていたウィニコットは次のように書きました。「創造性とはつまり、幼児体験に属するあるものを、人生を通じて保有することです。それは、世界を創造する能力です。幼児にとっては難しいことではありません。なぜなら母親が幼児の要求に応えることができれば、幼児は自分で想像し考えつくまで、世界が存在するという事実を最初は理解しないからです」ウィニコットは平均的な「ほどよい」母親はわが子が生まれた数週間に感じる一体感で、本能的に子供に自分が世界を創造できるのだという幻想を創り出そうとします。不必要な影響、例えばうるさい騒音や怒鳴り声、冷たい水、長い間お腹を空かせることなどからわが子を守ります。子どもが外の現実にうまく対処する許容度に合わせて徐々に、子どもが圧倒されないように気をつけながら、「少しずつ」世界を見せていきます。

 ウィニコットは母親たち(と父親たち)の子育てに関する自信をつけさせます。日々のストレスや疑念や困難についてもはっきりと述べる一方、彼は親の自然な能力を信じているからです。おそらく彼は「移行対象」という言葉を提唱したことで最も有名でしょう。ある時期になると幼児は布きれやおもちゃやリボンなどの何か特定のものに関心を持ちます。ウィニコットはこれらのものはたいてい不可分であると気づきました。それらは愛され、嫌われ、捨てられた後にまた見つけられます。特に夜には不安を鎮めてくれるにも拘わらず、ただなぐさめてくれるだけのものではないのです。

 ウィニコットはこの成長は幼児にとって外界になじむ過程で移行します。その対象は幼児/子どもによって創られたものでも、外界に属するものでもありません。ウィニコットはそういう対象を、「自分」でもなく「自分ではない」でもないので、「移行」と名付けました。それらは本当に主観的なもの(幼児によって創られた)でもなく、完全に客観的なものの世界(自分ではない)に属するわけでもありません。より小さな幼児では外側として世界を経験していませんが、発育期の幼児は彼らがコントロールできない「自分ではない」が存在することを理解し始めます。

 移行対象は主観的な現実と客観的な現実のギャップを耐えられるものにします。最終的には移行対象は子どもにとって意味を失いますが、子どもの内的世界と外界の間にある中間領域は残ります。「移行対象や移行事象は経験し始めの基礎となる幻想の領域に属するものです」とウィニコットは述べています。「この経験の中間領域は、内的世界か外界の共有された現実のどちらに属するかという観点では問題にされていませんが、幼児体験の重要な部分を占めており、人生を通じてアートや宗教、想像の世界、そして創造的な科学の仕事のような強い経験の中に生き続けます。」

 ウィニコットはそのような幻想は健康と創造的な生活に欠かせないと考えていました。ある音楽に没頭したり、あるアートや雪景色に驚くいたりすることは、世界が外界ではなく自分と不可分なものだと感じる瞬間です。それはあたかも自分が世界を創ったかのような瞬間です。これは遊びに夢中になった子どものそのままの延長です。フロイトやクレインとは違い、ウィニコットは遊びの中身よりも事象を重視しています。彼はいつもタゴールのギタンジャリにある「果てしない世界の海辺で子供たちは遊ぶ」という詩に魅了されていました。彼は遊びの無意識な象徴主義の精神分析的な研究は避けていました。「遊びは内なる精神的な現実でも外界の現実でもありません…もし遊びが内でも外でもないとすれば、それはどこにあるのでしょう?」と彼は問います。彼は遊びを中間領域に位置付け、子どもたちと関わる人々に繰り返し訴えました。「私たちは幼児に、これを創ったの?それとも転がっているのをただ見つけたの?と尋ねることには決して賛成できません。」その矛盾を問うことは遊びの現実離れした特性を壊すことになります。大人たちが、子どもたちが忙しく遊んでいる時に何をしているのかを言わせて、知識の未熟さに気を惹かせようすることの何と多いことでしょうか?

 ウィニコットは中間領域を(内なる精神的な現実と、共有された外の世界と対比して)3番目の空間と考えており、そして人生に生きる価値を与えるのはこの3番目の空間で、そこに人間の文化的な生活のすべてが存在するのだと考えていました。自分固有の「自分らしさ」を作り上げるのはこの中間領域での遊びの経験です。彼はこの領域での経験が累積すれば文化的な経験の共有資源に貢献すると考えました。創造性は普遍的なもので、特別な才能を必要としません。それは生きているという感じに含まれます。「個々の子どもや大人が創造的になれて個性すべてを発揮できるのは遊びの中であり、遊びの中でしかありえない。そしてそれぞれが自分自身を発見できるのは創造的でいることでしかありえない」これまでに他の精神分析医や心理学者がこのように考えたことはありませんでした。また「移行対象」という言葉は心理学の領域を超えて日常の言葉になりました。

 去年のリサージェンス&エコロジスト誌をぺらぺらめくると、普通の人々の毎日の創造性を強調している記事がたくさんあります。与えたりもらったりする機会のあるコミュニティとつながることは幸福感や活力、創造性を高めてくれます。そのようなコミュニティは個人の悲しみや苦しみの時代に母のような支えを与えてくれます。「思いやりのフロム(思いやりは最良の薬:リサージェンス307号)」の素晴らしい記事は2人の創設者とボランティアの創造性だけではなく、合唱団で歌う中で自分自身の創造性を再発見した利用者のそれも例として紹介しています。

 自然と繋がりなおすことの利点について書かれた記事がたくさんある中で、ピエール・ラビはサティシュ・クマールとの対談の中で(リサージェンス&エコロジスト303号)、時は金なりの不自然なシステムの奴隷になり下がって自然から遠ざかった人間について語っています。その精神が自然と人間を引き離していますが、断絶は現実的ではなく、私たちは根源、母なる地球に立ち戻る必要があると彼は考えています。美しい雪景色を見た人が頭でそれが美しいと知っていながらその素晴らしさを本当に感じることができないというのも同じく自然から遠ざかっていると言えます。そういう人は少なくとも一時的に、生きている感じや創造性を失っています。その精神が人間と自然の間にあるというラビの考えは、ウィニコットの「精神-身体」に関する精神の概念と共鳴しています。健康について言えば、精神や知識は「ほどよい」ケアで構築される精神身体的なまとまりの不可欠な部分です。精神は細胞や肉体を想像で表現したものです。幼児の自我の健康的な成育を阻む重大な影響があるとき、知性が引き継ぎ世話人のようにふるまいますが、のちの人生で現実を感じることができなくなったり、心身症という結果をもたらしかねません。そのような断絶や病は母なる地球との幼少期のつながりに注意すべきだというサインとみることができるかもしれません。

 ウィニコットは、人間は生来、貪欲でも、利己的でも、嫉妬深くも、快楽主義でもないと考えました。それは環境、特に人生の最初の数年間子どもを取り巻く環境が重要であると。完璧である必要はなく(実は完璧を求めることそのものが問題です)ただ子どもが生まれながらにして持っている創造性を開花させるのにほどよければよいのです。病や放置、トラウマはこのプロセスに干渉して、自分自身の中で断絶を残します。リサージェンスのいくつかの記事で述べられている人間と自然の分離に帰結するのではないかと思います。

 最後の言葉でウィニコットの紹介を終わります。「創造的に世界に向かい、世界を創造しなさい。あなたが創り出したものだけが、あなたにとって意味があるのです」

クリス・ブローガン (Dr Chris Brogan) は精神分析のサイコセラピストで、ドナルド・ウィニコットの著作を広めるために設立されたスクイグル協会の理事です。squiggle-foundation.org

リサージェンス & エコロジスト 日本版

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年、世界20カ国に読者4万人。環境運動の第一線で活躍するリーダーたちの、よりよい未来への提言で、考える糧を読者にお届け。また、詩や絵などのアートに溢れているのも特徴。

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