悲しみとしての堆肥愛

サイモン・コンスタンティンは、幼い甥のデクスターの死後、悲しみに打ちひしがれる中「人は誰でも、最終的には愛を堆くすることで真の宝物を見つけられる」という考えを探求し、慰めを見出している。

翻訳校正:沓名 輝政

この1年は悲嘆の年であり、振り返ると、これまでの多くの年よりもさらに、私にとって大きな喪失感を伴う年でした。深く個人的な喪失感もあれば、共同体としての喪失感もありました。

 2022年の夏、私の甥は癌との闘いを終えました。彼の葬儀は、8歳の誕生日に行われました。懸命に闘った末の悲劇は、言葉で伝えるのは難しく、事実上不可能なことです。今もまだ、彼の死が現実味を帯びてきません。

 しかし、彼が亡くなった時、語りかける手段が他になかった私は、自分自身にこんなメモを書きました。

 良い悲しみというものがあるのだろうか。

 数年前、シューマッハ・カレッジを訪れた際、掲示板に貼られたポスターを見たことを覚えています。シューマッハ・カレッジといえば、前衛的なエコ思想の砦であり、このポスターはまさにそのようなコンセプトを示していました。

 それは「悲しみの堆肥」セッションへの招待状でした。悲嘆のプロセスを堆肥の山になぞらえ、少し詳しく説明されていました。日時が添えられていましたが、それ以外には、これが何を意味するのかを示すものはほとんどありませんでした。

 残念ながら、私はその日しか滞在しておらず、セッションに参加することはできませんでした。しかし、そのコンセプトと、ちょっとボロボロになったポスターは、私の心に残っていたのです。そんなこんなで、ずっとほぼ落ち着いていたのですが、最近になってまた悲しみが蘇ってきました。そして今、愛する幼い家族を失うという悲劇に直面し、その埃まみれの記憶を掘り起こし、探求する時が来たような気がしています。

 この時点で、私はこのテーマを直感と個人的な経験、そしてそれ以外の何ものでもなく実行していると言わせていただきたいです。専門的な知識もなければ、自分が何をしているのかさえもわからない(悲しみと同じだと思う)。次に知ったのが自宅での堆肥化で、いくつもの災難に見舞われました。その中でも一番ひどかったのは、魚の頭が入った2つの袋が猛烈な勢いで分解され、その熱で腐った魚油が車庫までの通路に漏れ出し、ハエやカブトムシが何百匹も集まり、8月の熱波の中でドアや窓を閉めざるを得なかったことです。

 ともあれ、話は変わります。悲しみと堆肥、この2つに共通するものは何でしょうか?まず、私が知っている堆肥について説明しましょう。

 堆肥は、枯れた植物に含まれる栄養分やミネラルを分解するもので、生命にとって不可欠なものです。多くの生物種が堆肥化で繁栄しているのです。

 その結果、豊かで肥沃な土地となり、再び生命が繁栄するのです。

 私が知る悲嘆の感覚は、愛する人を失うと穴が開くということです。かつては生き生きとした生命で満たされていた隙間です。自然界では、大木が倒れたり、花の咲く茂みが枯れたりすると「堆肥化装置」が作動します。その素晴らしい姿の内側に閉じ込められていたものが、今、解放されるのです。悲しみは、記憶や感情、喪失感や愛が突然表面化するようなものだと感じることができるかもしれません。

 そして、自然はこのプロセスを望んでいるのです。私たちは同じ用語を使っています。私たちは分解されます。

 これはひどいと感じます。不公平。私たちは怒り、絶望さえ覚えます。このようなことをされるのは、親切とは思えません。率直に言って、クソみたいな気分。しかし、クソは最高の堆肥になるのです。

 新鮮な牛糞や乾燥した馬糞を菜園でかき集める作業を何度も手伝ってきた私にとって、糞をかき集める作業は、悲しみがどんなものかを示す最良の例かもしれません。長くて、大変で、ちょっとありがたくない。

 しかし、その結果得られるものは、本当に素晴らしいものです。同じことをした人は、その結果を見逃すわけがない。赤く蠢くミミズ、細かい菌糸、そしてこの1年はコンポスト容器にヨーロッパヤマカガシが棲みついてその卵の一群がありました。

 そして、ここからが希望の光です。そのゴミの山から、次の季節のための豊かで肥沃な土壌が生まれるからです。それが新しい苗を育て、将来の収穫をもたらすのです。菜園家として、そのことに何か安らぎを感じます。しばらくの間、あなたはそのサイクルの一部となり、それを助け、そしていつかあなた自身もそのサイクルの一部となるのです。

 もちろん、心の痛みや苦悩を防ぐことはできませんが、そのようなクソみたいなものから、また新しい命が花開くということを知ることは、私が想像できる最も温かい遺産であり、このような時に私が抱きしめるものなのです。

 さようなら、デクスター — 我が家の菜園にはいつもあなたの一部があるよ。

愛をこめて、Si xx おじさんより

 今、この文章を振り返ってみると、何よりも人生のプロセスを自分自身で語っているようで、悲しみを自然のサイクルに結びつけることは、そう、自然なことだと感じます。すべてのものは流転しており、絶望が迫ると同時に、回復と癒しの種もあるという確信があります。最初はわからなかったけれど、友人たちが絶妙に親切な方法で支えてくれて、悲しみで時に感じる黒っぽい海のような空洞の深みから、私を表面へと優しく導いてくれていることに、今まさに気づいています。

 このような悲しみの感覚は、私たちの多くにとって身近なものでもあります。ここ数年、喪失と死は以前よりもずっと多くなっています。そのため、私たちの多くは、お互いを守り、より長く一緒にいるために、思い切った行動をとっています。その結果、私は、この共同体の喪失の根底にある悲嘆の感情について考えさせられました。気温の上昇や森林伐採率の統計を見ると、胸が痛くなるようなパニックに陥ることがあります。この喪失感と悲しみは、個人的なものから集団的なもの、そして世界的なものへと複合的に広がっていくのです。

 夏に私が世話をしている菜園を訪れた際、レニー・ラーツマン(Renée Lertzman)と話をしました。ラーツマンは世界的に有名な気候心理学者で、私たちが気候変動を否定したり、その重大さに圧倒され不安になったりする心理的プロセスについて、素晴らしい学びを得ています。彼女の研究は、私たちがこうした感情を探求し、それを認識する必要性を強調しています — 私自身、ようやく理解し始めたところです。彼女は、混乱から抜け出す方法を探している人たちのガイドとして、より控えめな救済策を勧めています。

 新しい道を探す人々を支援することで、深い個人的なものから圧倒的な普遍的なものまで、悲しみの糸がいかに織り成されているかに気づかされました。私たちは、自分の道を見つけるための空間と優しい導きを必要としていますが、同様に、堆肥のように、時間の問題でもあります。喪失感が朽ち果てるとき、その後に何か特別で美しいものが育つことを思い出せるのです。ひどく苦しい感じですが、その感情が収まると、愛が残り、そのためにこんなに痛いのかと気づくのです。なぜかどちらか一方が欠けてもダメなのです。

 おそらくこれは、カーリル・ジブランが『預言者』の中で、より雄弁に語っていることかと思います。

 「そして、アルミトラは言った。私たちは今、死について尋ねます。」

 「そこで彼は言った。

あなたは死の秘密を知ろうとする。

しかし、生命の中心でそれを求めない限り、どうやってそれを見つけられるだろうか?

夜行性で昼間に目が見えないフクロウは、光の謎を解き明かすことはできない。

 もし、あなたが本当に死の霊を見たいと思うなら、あなたの心を大きく開いて、生の体に向かってください。

川と海がひとつであるように、生と死はひとつなのだから。

 あなたの希望と欲望の奥底には、彼方への無言の知識がある。

雪の下で夢見る種子のように、あなたの心は春を夢見るのです」

サイモン・コンスタンチン(Simon Constantine)は、家業の LUSH でチーフ調香師兼エシカル購買の責任者としてキャリアを積んだ後、2019年に同社を離れ、化学物質を含まない独自のフレグランスシリーズを立ち上げ、ドーセットのピドルバレーの史跡、キャリーズ・シークレット・ガーデン(Careys Secret Garden)の修復・再生に取り組んでいる。

リサージェンス & エコロジスト 日本版

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年、世界20カ国に読者4万人。環境運動の第一線で活躍するリーダーたちの、よりよい未来への提言で、考える糧を読者にお届け。また、詩や絵などのアートに溢れているのも特徴。

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