道徳心はゆりかごの中で

善悪についての初めの感覚を、私たちはどこから得るのでしょうか。プリシラ・アルダーソンは、それは社会から教え込まれるというよりも、生後数ヶ月の時期にあり、さらには人間は生まれながらに道徳心を備えているかもしれないと言います。

 2011年のオーストラリアで、2人の男の子が荒れ狂う洪水にもがいていた時、13才だったジョーダン・ライス (Jordan Rice) は救助隊に懇願しました。「弟を先に助けて」 救助隊は10才のブレイクを救いましたが、ジョーダンは溺死しました。

 ジョーダンの懇願は、亡くなったイギリスの下院議員ジョー・コックス (Jo Cox) が友人にかけた電話のようでした。コックスは、昨年にヨークシャーの自分の選挙区で過激派に通りで襲われました。2発の銃弾は致命傷となり、さらには15回刺されて、友人に電話をかけました。彼女は、友人たちに、自分を助けずに逃げろと強く促しました。このような例は、多くの人に考えさせます。「生死を分ける極限的瞬間が本当の自分を露わにするとしたら、私はどのように振舞うことができるのだろうか。自己中心的に助けを要求するのか、それとも、他人に対し寛容な思いやりの心を見せるのだろうか」

 何世紀もの間、専門家は原罪 (original sin:神の教え無くしては人間は善くあることはできないというキリスト教の教え) 、最近は「利己的遺伝子 (selfish gene) 」というものに姿を変えましたが、についての信奉を支持してきました。私たちが不道徳ではないというなら、生まれた時は道徳的観念がない、それとも道徳的に未発達なのでしょうか。クエーカー教徒は、神は全ての人に現れると信じていますが、1980年代まで執筆した教育哲学の第一人者であるクエーカー教徒のリチャード・スタンリー・ピータース (Richard Stanley Peters) は、7才未満の子供を「全ての人」から除いていたようです。

 ピータースは、「もしかしたら異様で漠然とした欲望に支配され」、「善悪の知識」がない「野蛮な」子供たちは、どのように「自己の欲望と自己愛」を乗り越え、他人を尊重することを学ぶのかについて考えを巡らせていました。子供たちの「得体の知れない世界 (twilight world) 」の中にある原始人的感情の強烈な核に、教師たちはどのように耐え忍び、文明という殻をその核の上に育成していくのだろうかと、ピーターズは思いました。人間の道徳性の由来についてのこのような考え方からは、子供たちは道徳的な人間になるように教えられ、社会に適応させられなければなりません。次第に子供たちは、「善悪の区別」を身に付け、宗教的・政治的指導者によって作られたルールや法律、慣習に従うことを学ばなければなりません。良い子はルールに従い、反抗的な質問はしないのです。学校が、疑問に付されないルールをどのような形でも破ることについて「ゼロ容認 (zero tolerance) 」を徹底するにつれて、道徳性についての自立した考えは力をそがれてしまいます。

 道徳性とは学習された従順さであるという伝統的な考えは、高等教育を受けて成功した人たちが、恵まれなかった人たちよりも道徳的であると判断するリスクがあります。けれども、教育がなくても親切心にあふれた人たちは無数にいるのです。それにも拘らず、イマヌエル・カントの哲学では、親切心は必ずしも道徳的であるとはいえません。子供への、あるいは隣人への母親の愛情は、見返りを求める自己の関心、もしくは、思考のない感情的な反応としてみなされるかもしれません。それに比べ、カントの真の道徳的利他主義とは、何らの見返りを当てにせず他人に対して善行するという、自己犠牲の合理的な決定です。この考えは、道徳性についてのかつての見解に類似します。この見解は、あたかも道徳性とは非人間的で決まりきっており、見返りを求めない不自然なもので、どこか外の世界から来たものでありながら、高度に文明化され尊重された人間としての義務であるとするかのように、道徳性を人間性から切り離しているのです。

 けれども、私たちが本能的に善い行いをしたいと望み、喜びをもって行うことがないのなら、一体私たちはどのような生きものなのでしょうか。人間の性質を、「創造的な、社会性と道徳性を身につけた生物 (synthetic, acquired social and moral life) 」に比して、「まさに動物的な、道徳観念のない動物的生態 (authentic, amoral animal biology) 」に格下げしてしまうことは、道徳的な社会と文化を生み出す人間の性質の、きわめて高度な社会性と精神性を否定してしまいます。

 魚が水の外では生きることができないように、人間は道徳性の外で存在することはできません。権力と正義の問題を避けて通ろうとする試みは、道徳的無関心と(善悪は相対的でしかないという)相対主義を肯定します。この試みは、苦しみなど本当は存在しない、あるいは問題ではないのだと暗に示しているのです。この試みによって、世界は他の道徳律が支配する世界へと再構築されます。用心深さ、損得、実用性、ルールを守っているか、もしくは、仕事ができる人か。私たちは、自分の「社会的資本 (social capital) 」がいくらになるかを心配するのです。かつて人間の美徳とされた、「親切心、勇気、礼儀正しさ、誠実さ、愛情深さ、寛容さや感謝の心」は、自己利益の計算と強欲さに取って代わられてしまうと、アルヴィン・グールドナー (Alvin Gouldner) は、1970年の著書「The Coming Crisis of Western Sociology(仮題:西洋社会学の来るべき危機)」で主張しています。

 ハンナ・アーレント (Hannah Arendt) 、ジグムント・バウマン (Zygmunt Bauman) 、その他の著述家は、盲目的な道徳的従順に大きな危険性を見ました。彼らは、ドイツのホロコーストは、人間の正邪の幅を示す3つの主な人間のタイプを露呈したと確信していました。残忍な犯罪者、傍観者、数少ない勇敢な反抗者です。ルールに盲従し、責任を支配層の権力者たちに預け、犠牲者を人間として見ることができない時、ごく普通のいい人たちが悪を行うのです。道徳心とは、そのような時、虐げられた人々への思いやりと連帯に身を置き、不正義であり残酷な大多数の見解に逆らい、反抗する類稀なる勇気なのです。

 ルールに背くならその行為は悪いのだと決めてかかる従順さを肯定する代わりに、アーレンとバウマンは、ルールは、行いが悪い時だけその行いを禁止するものでなければならないと信じました。この考え方は、正不正や善悪について信じられていることを、(自分たちから)遠く離れた権威や疑われることのないしきたりによる命令から解き放ち、日々の挑戦、問いかけ、生きた現実、人間性と良心、行動と人との交わり方へと大きく変貌させるのです。

 2003年の著書「近代とホロコースト」の中で、バウマンは問いました。道徳性という概念は、全てがどうにかして想像され創り出されたというのなら、どこから来たのだろうか。誰が創り出すのか、どうやって、何のために? 先に述べたように、道徳性を未発達の子供という野蛮人に刷り込まなければならないという考えは、(人間の)外にある道徳性は人間性に反するということをほのめかしています。けれども、道徳性は、私たち全てにとって、直接関係があり、喫緊の物事なのです。道徳性は、それが脆く心の支えを必要とする人間性や、私たちの相互依存性、長く他人に依存する子供時代に大本がある時、それが人間の繁栄の力になり苦しみを和らげる時、自分と他の人を守るのです。

 道徳性は、作為的な、あるいは一方的に押し付けられるものというより、人間性そのもので人間性不可欠なものと考えることができるのです。道徳心の全てが習い覚えるものではなく、部分的に生まれ持つものなら、いつ私たちは道徳的主体となるのでしょうか。バウマンは、社会性を身につける前の道徳的行為の領域があるかもしれないと思いました。もしそうであるなら、道徳的規範の源がどこから発するのかについての考えを、合理的に考え直す必要があるだろうとバウマンは考えました。バウマンは、この考えについて追求することはしませんでした。この考えは、人間であるとは何を意味するのか、人間の道徳的生活はいつ始まるのかについて問いを投げかけています。

 道徳性を、言葉による思考から人間の行動へと拡げることで、生後数ヶ月の言葉の未発達な時期における道徳的意識に気づくことができます。道徳心は、言語を越えて、感情や人との関わり、行動に本来備わっているのです。赤ちゃんが誕生した時から関わりを持つ事柄です。にもかかわらず、赤ちゃんが正義もしくは善について何らかの感覚を持っていると想像することは非現実的に見えます。それでもやはり、赤ちゃんは、人とつながる喜びや信頼、愛という道徳的感情を表現し、傷つけられれば、恐れや不信感を表すのです。

 イェール大学のポール・ブルーム (Paul Bloom) は、赤ちゃんに、一方が他方を邪魔したり助けたりする中で、やさしくあるいは乱暴に振舞う、人形のように見える幾何学的な形の動画を見せました。ブルームは、赤ちゃんの視線と、注意と驚きの反応の、マイクロ秒のビデオを分析。たった3ヶ月の赤ちゃんでも、他人の行為の善悪がわかり、すぐに共感と思いやりを示すと結論づけました。赤ちゃんは他人の苦しみを和らげようとし、正義感の芽生えがあるというのです。実験では、ほとんどの6ヶ月と10ヶ月の赤ちゃんが、それぞれの実験の中で、「妨害者」の人形越しに、「援助者」の人形をつかもうと手を伸ばしていました。

 ブルーム他多数の人たちは、人間の利他主義は数千年以上発展し続け生得的な性質になったと考えています。この考えは、他の道徳的性質を持つ哺乳類についてや自然淘汰、共に生き残るために必要な共通の事柄についての、フランス・ドゥ・ヴァール (Frans de Waal:動物行動学者) の研究によって裏付けられています。協力的な両親を持つ子孫は、そうでない者よりも生き残りやすいのです。

 道徳的な人間はただ善者であるだけではありません。意識的に善悪の衝動と戦っています。ブルームは、生来の分別や想像力、思いやりの心を伸ばすことを通して、子供たちは内に備わる道徳心の芽を育てると主張します。よだれのついたかじった後のビスケットを、家族と分かち合おうと心広くも渡して回した、私が観察した6ヶ月の赤ちゃん。彼女は、道徳心を学び洗練させていく人生を目の当たりにしたのです。にもかかわらず、年を重ねた人たちは、必ずしも若い子供たちより親切、もしくは道徳的ではありません。とてもつもなく誠実で寛容、やさしくなれる子供たちと比べて。犬やオオカミ、牛や馬などの、複合的な群れで生きる生物種のように、私たちは極めて社交的で、人と関わり、分かち合い、交流することを望みます。私たちには、自意識や、固有の罪悪感、後悔、恥じ入る気持ちという、人間としての更なる特性が備わっています。ダーウィンの言ったように、秋の季節、羽がそろったばかりの雛鳥を置いて旅立っても、自責の念にさいなまれることのないツバメとは、私たちは違うのです。

 学校は、子供たちに善悪の区別という彼らが既に備えている深い知識を教える代わりに、生まれながらに持っている人間についての理解と、自律的な道徳的判断力という人間として決定的な特性を尊重し、伸ばし育てることができるでしょう。13歳のジョーダン・ライスが完全に身につけていた、この判断する力を。

プリシラ・アルダーソンは、ロンドン大学教育研究所の子供期研究 (Childhood Studies) 名誉教授。最近出版された「The Politics of Childhoods Real and Imagined(仮題:子供時代の現実と想像上の子供時代の政治学)」の著者。

Cradles of Morality • Priscilla Alderson

Our early ideas of right and wrong are innate

リサージェンス & エコロジスト 日本版

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年、世界20カ国に読者4万人。環境運動の第一線で活躍するリーダーたちの、よりよい未来への提言で、考える糧を読者にお届け。また、詩や絵などのアートに溢れているのも特徴。

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